先日、地元のマツダスタジアムで

12球団合同トライアウトがありました。

この時の辛さを知る自分としては、心から

テストを受ける選手に

『最高のパフォーマンスをして欲しい!』

と願っているのです。

10月は野球選手にとっては、来年の契約があるのか

不安な時期です。

自分は24年前の11月に球団から戦力外通告を受けました。

正直自分はまだまだやれると思っていました。

人生において野球しかやってきていない自分にとって

野球を辞めるという選択肢はなく

当時トライアウトはなかったので、

カープのキャンプに帯同練習をして、結果を待ちました。

その時も手応えは感じたし

当時の三村監督からも声をかけていただき、

まだやれるという強い気持ちがありました。

しかし結果は不合格。他球団のテストの話もありましたが、

受けることはできず、この先の自分の進路を考えた時、

周囲からは、球団の用具係、プロ野球の審判、焼き肉店の幹部候補生

落合博満記念館の館長などの話をもらいました。

スーツを着て、すべての話を聞きましたが、まだプロ野球選手が

出来ると思っていた22才でしたので、どの道も進みたいと

心から思うことが出来ませんでした。

いろいろな話を聞いたうえで、まだまだ自分の体力で稼ぎたい

という気持ちが強く

プロスポーツ選手の世界に未練がありました。

そんな時、妻の父親から、

もし、野球選手がだめだったら、

競輪選手になってもらいたいという

話をされていたことを思い出しました。

帰省で山口に帰ると、「1度でいいから、立ち幅跳び何メートル

跳べるか、跳んでみてくれ」とも言われていました。

(競輪選手の適性試験は当時、

立ち幅跳び、100m走、1500m走がありました。)

その頃は父の言葉など右から左、野球を辞めることが頭になかった

自分は、競輪選手になるイメージは全くありませんでした。

しかし、野球の道はない、とはっきり道が閉ざされたと

わかった時、自分が燃えることが出来るのは、競輪しか

残されていないのだと思い、志すことに決めました。

その当時、競輪選手になるには年齢制限があり

(現在は撤廃された)

志したのは23歳の誕生日の1ヶ月前。

24歳になるまでに競輪学校に入学する必要がありました。

とすると、チャンスは1回、まさにラストチャンスへの

賭けでした。そうして次の進路に向けて

お世話になったいろんな方にお断りの電話を入れました。

その全員の方に

「そんなの100%無理だからやめておけ。」

「競輪選手を目指して、なれなかった人を沢山見てきた。」

「悪いことは言わないから、良い話なのだから

面接したところでお世話なったほうが良い。」

と言われました。

そう言われると逆に、絶対無理なんてことはない、

自分は絶対に競輪選手になると奮い立ちました。

話は続きます・・・